2014年5月29日木曜日

個人欠如新社会=新人類

個人の不必要性は資本主義の世界では当たり前

個人が神ではなく象徴が神であり、偶像崇拝としての個人はいなくなり、

初音ミクや企業が天才であり神である時代。



対象が個人だとどうしても自由度が低いため、

結果的に自由に人格を変化できる象徴としての企業やアニメのキャラクターが崇拝されるし、

天才と崇められる時代になった。



ちょっと前の今でも続くローブローアートはアメリカの文化から脱線して出てきたものであり、

現代の絵画の無意味性を排して出てきたものではないため、

日本人に定着しないのも無理はない。


神としての象徴や人間社会からずば抜けたものでなければ高い評価に値しないのもわかるが、

より高いものより技術が伴ったもののみ評価されるのであれば、

機械技術に人間は叶わないため不必要なのかもしれない。


しかし、人間がいないと新らしいものが生み出せないのも確かで、

ARTの未来はアーティストがどのようにして機械や技術や職人を使って新しい象徴となる偶像を作

り上げるかなのかもしれない。



勝てないならテーブルごとひっくり返せ



アートの社会をテーブルゲームと例えたバンクシーの言葉。市場を引っくり返すか下請けのままおこぼれをもらうか。中小企業にも例えられる文面である。


もともとARTの知識人もいない日本のどこにテーブルがあるんだっていう話だが


世界にはあるって話?


アメリカや日本の片田舎に住んでたらないかもしれないけど


アーティストがネットを介して自分を無くし「名無し」のように世界に発信していくこと。


個人じゃない自由に変化できる偶像となること。


これが新人類なのでしょうか。

0 件のコメント: